こけし日報

制作日記

20211220 舌に足かせ

昨日は日記専門書店の日記屋から連絡があって、2022年4月10日にある日記本販売イベント「日記祭」に委託で出店できることになった。

tsukihi.stores.jp


来年は日記本も作ることになったから忙しいなぁ。



昨日はTOEICを受けてきた。
英語といえば前に読んだ山口誠先生の『英語講座の誕生』がすごく面白かった。



戦前の英語講座がどう作られていったかという話で、実用英語と教養英語(=英文学)とが分かれて、学校教育には教養英語の方が取り入れられていって、実用英語の方は英会話となっていったというふうに、今ある英語を学ぶ上で当たり前となってるシステムやカリキュラムができるまでが描かれていてすごく面白かった。

共通語は、澄まし顔で人々を多重言語状況に閉じ込め、その言語地理の座標軸における個々の位置価を背負わせる。背負わされた位置価の始点(出身言語)は刻印されるが、しかし現在位置は常に移動可能であるために、自己の位置価を強く認識すればするほど、自己努力によって位置価の移項を目指したり、またはその外部を目指したりするだろう。たとえば、より「英語」らしいアクセントと身振りへ、より「共通語」らしい発音と語彙へと。または「東京弁」に対抗して「(純粋な?)京都弁」を話したり、「英語」を話さないという主義を立てたり。
 この終わりなき梯子とどう付き合うかは任意だが、それを昇り切ることも降り切ることもできない。それを無視しても、いつか誰かに位置価を名指されるだろう。たとえば「〇〇(日本/東北)出身とは思えないほど、アクセントにクセがないですね」と。


この一節を読んだときに、自分がTOEIC受けてる理由がよく理解できた。
自分はカナダにいたっていえるくらいの点数が欲しくて受けてる。
別に仕事で使うわけでもなし、自分のペースで好きに勉強すればいいのにそれじゃ満足できなくて、わざわざカナダにいたんだったらこれくらいあったほうがいいみたいな点数を目指して勉強している。
英語を学び始めると、英語学習者という梯子の中で初級、中級、上級みたいな梯子に位置付けられる。それだけでなく、「カナダにいたんだから」と名指す誰かの視線を内面化している。


自分ではこれはすごくつまらない動機だなと思ってしまうんだけど、言語学習には一旦学び出すとそこから降りられないような機制が働くと思う。


全然話が変わるけど、今やってる朝ドラの『カムカムエヴリバディ』は言語を学ぶときに働くそういう機制にはあまり触れられてない。
この間読んだ韓国の移民ラッパーMoment Joonさんの『日本移民日記』では、いくら語彙を習得して正しい文法で話したとしても、「なまり」が抜けなくて、自分の日本語に対して嫌悪感を抱くとあった。それを「舌に足かせ」がついていると表現していた。




どんなに上達しても、自分の母国語でない言葉で話す限りは、そのような葛藤や気後れ抜きに外国語を話せる人はそういない。


うろ覚えだけど、ドラマでは主人公の安子は日本語が話せる進駐軍のロバートに「日本語お上手ですね」とは言わないし、ロバートは安子に「英語お上手ですね」って言ってない気がする。
あるいは、もしかしたらそのような機制が働かないほど二人は勉強したということを示したいのかもしれないし、そういう機制が働かないくらい二人の気持ちが通じていると描きたかったのかもしれないけど。
でも二人はジャッジも終わりなき梯子の昇り降りもない世界の中で、舌に足かせなんかついてないみたいに話す。

言語学習するなら、こういう世界が理想的だなあと思う。
わたしも舌に足かせなんかないくらいに話せたらなあ。